おやすみ、アイちゃん

2026年09月25日

  アイは、犬山で過ごした10年以上のなかで、おそらく一番お世話になったチンパンジーでした。そして、朝、最初に会って挨拶をするチンパンジーでもありました。

 京都大学・犬山キャンパスでのチンパンジーを対象とした比較認知科学研究の多くは、チンパンジーたちが、複数の実験室をそれぞれ決まった時間に訪れる形式で行われてきました。私が大学院生や研究員として実験を行った部屋は、アイにとって、学校の時間割でいう1時間目に当たる時間帯が割り振られていました。朝、アイが実験室に来て挨拶をしてくれる、そして、私も挨拶をするひとときは、もちろん「今日もアイに会えた」と嬉しく感じる瞬間でしたが、実は、朝が苦手な私にとっては、「今日も遅刻せずに一日をはじめられた」とホッとする瞬間でもありました。アイに挨拶をして一日がはじまる、アイを対象とした実験で一日がはじまる、そんな感覚を持っていました。そのため、アイは、私にとって、犬山のチンパンジーたちの象徴であり、自分が取り組んできた実験や犬山キャンパスでの思い出の象徴でもあります。

 実験室でのアイは、真面目で、実験者や見学者とのコミュニケーションが大好きで、注意深く、好奇心が豊かでした。

 それぞれの実験室に行くかどうかはチンパンジーたちの意思にゆだねられているのですが、アイが時間通りに来ないことは、あまりありませんでした。チンパンジーたちが暮らしている場所まで実験者が呼びに行くこともありましたが、そういったときも、アイは、実験室に繋がっている場所で待っているか、遠くにいても少し声を掛けると近寄ってきてくれることがほとんどでした。気が乗らなさそうなときもたまにありましたが、リズムよく手を叩いたり足を踏み鳴らしたりすると、だんだんアイもリズムに乗りだし、移動してくれたこともありました。アイがあまり「お休み」することなく実験に参加してくれたことは、特に、ある程度限られた期間でデータを取る必要がある大学院生たちにとっては、大いに助けになったのではないかと思います。

 実験室の中でそれぞれの実験に参加するかどうかも、チンパンジーたちの意思にゆだねられています。アイは、やって来たら「真面目」に取り組むタイプで、実験者と挨拶などをしたらすぐにコンピュータの問題などを解きはじめました。ソワソワして手がつかないといった様子になるのは、遠くから息子のアユムや同い年のアキラがケンカなどで激しく叫んでいるのが聞こえてきたときぐらいでした。そうして真面目にすべての問題を解き終えた後、実験者とアクリルパネル越しにコミュニケーションを取り、背中やお尻を叩いてもらったり、時には追いかけっこをしたりするのが好きだったようです。アイの楽しそうな笑い声を聞くことができるひとときでした。

 いつも実験室にやって来てすぐに問題を解き始めたアイですが、実験を見学・取材している人がいるときは別でした。問題に取り掛かる前に見学者を挨拶や遊びに誘うこともたくさんありました。実験者から「先に問題を解いてください」とお願いされ、結局は実験をすべて終えてから見学者と挨拶したり遊んだりすることになるのですが、いつものルーティーンを変えてしまうほど、アイにとって、見学者とコミュニケーションを取る時間が楽しかったのではないかと思います。アクリルパネルを叩いて見学者を誘うアイの様子は、私の好きな光景のひとつです。

 アイは、実験室内の小さな変化や実験時間中のハプニングにもすぐに気づきました。そして、その部分をいじってみたいという強い好奇心を持っていました。しかも、変化に気づいたりハプニングが起きたりした瞬間にその部分を見つめたり近づいたりするのではなく、実験者側が油断する瞬間を待っていたようです。何も気にしていないかのようないつも通りの様子で実験に参加し続けるので、アイは気づいていないか興味がないのだと思ってしまうのですが、実験がひと段落して何事もなく終えられそうだと実験者が油断したタイミングで、アイは、いきなり行動を起こすのです。危険で冷や汗の出るようなエピソードですが、同時に、アイの賢さを最も感じた瞬間でもありました。

 実験室から仲間たちと暮らす場所に戻ると、アイは、よく高いタワーの上で過ごしていました。タワーの上での様子は、姿勢も眼差しも哲学者のような思慮深さを感じさせるものでした。そうした静かで落ち着いた面も、とても真面目な面も、油断ならない面も、笑いながら一緒に遊んでくれる面も持っているところが、魅力的でした。


 アイは私にとってちょうど10歳年上であり、年上のお姉さんという親しみも持っていました。年齢を重ねていくアイを、後輩としてもっともっと追い掛けていたかったと感じています。「おはよう」「おやすみ」「またね」と挨拶したことはあったけれど、「さようなら」と挨拶したことはなかったのだと、この記事を書き進めていて気づきました。

 犬山を離れてからの数年、授業の題材として何度もアイや犬山のチンパンジーたちを取り上げてきました。授業で登場するたびにアイに再会したような気持ちになっていましたが、もっと会いに行けば良かった。アイの話題をきっかけに動物心理学に関心を持つ大学生や高校生もいるようです。アイに教えてもらったことを、次の世代に伝えていきたいと思います。

たくさんありがとう。

村松 明穂(秋田県立大学)


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