長くて短かかったアイとの35年

2026年04月07日

 「なんだか覚えづらい平均顔だなあ」                                                                                                                           1990年夏、初めてアイに会った時の印象です。アイは推定13歳、私は映像制作会社で働くようになって5年目でした。その前の年にテレビ番組「野生の王国」の取材で3か月近くをアフリカで過ごし、すっかりチンパンジーのとりこになった私は、次の企画を探す中でアイと出会いました。

 以来アイとの「つき合い」は35年あまり。こんなに続いたのはやはり、アイや仲間のチンパンジーたち、研究や飼育に携わる人々、そして研究プロジェクトそのものが魅力的だったからに他なりません。海外版や学会発表用・広報用も含め、数えきれないほどの動画を作りましたが、いつも発見がいっぱいで楽しくてしかたがありませんでした。できることならもっと高齢になったアイが老いと向き合っていく姿を、自分も一緒に老いながら見つめていたかった。最大のケアを受けての大往生だったとわかってはいても、無念な気持ちが湧いてきます。

 アイさん…いつしか敬意をこめてさん付けで呼ぶようになりました。でも最初の10年ほどは、良好な関係とはいえませんでした。アイの前で撮り方をめぐって研究者と議論になることもあり、アイは私のことを「食べ物もくれず、態度だけがでかいやつ」と見ていたのでしょう。スキあらばマウントを取ろうと狙ってきました。

 学習ブースの反射を防ぐための暗幕やマイクのコードなど、ブース内のチンパンジーが隙間から手を出しても届かないよう毎回注意して設置するのですが、まれにいつもよりも近い位置にずれてしまうことがありました。どのチンパンジーもそういう僅かな違いを見つける目は鋭いですが、アイにはとくに「嫌らしさ」がありました。ブースに入った瞬間に「今日はアレに届くかも」と気づいても、コンピュータ課題を1セッション終えるまでは手を伸ばさないのです。ブースに来てすぐは健康状態の確認などで実験者もアイに注意を払っていますし、最初からいたずらをすれば学習(実験)が中止になって運動場へ帰されることもあります。ひと課題すませてごほうびをもらい、まわりの人が次の課題の準備で目を離したスキに、アイはいたずらを実行に移すのです。当時の撮影記録ノートには「アイ性格悪い!要注意」と私の怒りの殴り書きが。


 もちろん人間の性格の良し悪しとチンパンジーの論理は別ですし、アイの油断のならなさは高い社会的知性の表われです。そんなアイの「自分を制御する力」の高さに、逆に助けられることもありました。たとえば特別な来客や番組レポーターがいるとき。アイはすばらしく愛想よくふるまい、まわりの人々を喜ばせました。野生チンパンジー研究のパイオニア、ジェーン・グドール博士は講演や会議などで来日するたびにアイを訪ねてくれましたが、彼女に対するアイのいい子ぶりには毎回とくに驚かされました。ジェーンのチンパンジーに対する愛情が伝わった、という面もあったとは思いますが。

 「平均顔」で、仲間のチンパンジーたちの中にいると目立たなくて、でも芯はすごく負けず嫌いで、相手の裏もかくし忖度もする…アイはチンパンジーの深くて複雑な知性を私たちに教えてくれる「通訳」だったと思います。

 2000年に息子のアユムが生まれた頃から、アイの私に対する態度が変わっていきました。研究所を訪れるたびに口を大きくあけて(表面上は)嬉しそうに挨拶をしてくれるようになったのです。

 その頃のアイは初めての子育てにとまどい、ストレスもいっぱいでした。でも同時に、アユムが毎日少しずつ大きくなり、できることが増えていくのを実感して、達成感があったのだと思います。コンピュータ課題では「正解」という達成感を強く求めるアイの個性が好成績の源でしたが、子育てでもそれが良い方向に発揮されたのでしょう。そうした学習場面以外での自信を得て、アイは「どっしりと構えていられる」ようになったのだと思います。

 その子育てにまつわるエピソードも語りきれないほどあるのですが、それはこれからこのブログを引き継いでいく方々が書かれるのを楽しみにいたしましょう。アイさん、本当にありがとう。あなたのこと、忘れないよ。

中村 美穂(アニカプロダクション)



記)1990年代の実験見学では個人用防護具(PPE)を着用しない場合がありましたが、今日では着用が義務付けられています。

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